親指だけ〈が/で〉生きている
PSPケータイの動画を見て衝撃的だったのは、ドロイドくんの指のない丸い手に、人間の親指が縫い付けられているカットでした。ハサミを持った男達が後ろを振り返り振り返り、路地を抜けていくシークエンスのサスペンス風味もさることながら、夜の薄暗がりで、まさに取って付けた親指をひくひくと動かすドロイド君の姿の異様さといったらほとんどホラーで、夜に見るのは遠慮したいほどです。
あれは〈義指〉というのでしょうか。
キャプテン・クック、エドワード・シザーハンズ、ドクター・ハラウェイ。わたしは、わりと、創作の中の義手を見慣れている方だとおもいます。それなのに、あのドロイド君の指には受け入れがたい違和感がありました。半年以上経った今もってなお、その違和感が残っていたので、ドロイド君の指について考えてみることにしました。
さて。上述の三者の義手は、二種に分けられるようにおもいます。本来的な義手と、身体能力を拡張するための義手の二種。まず、時計ワニに腕を食べられてしまったクック船長、人間の手を与えてもらえず、急ごしらえのハサミの手のままだったエドワード。彼らは欠けた手の代替として、それぞれ鉤爪とハサミを義手としています。ナマの有機物である身体と、金属でできた義手は不思議なコントラストをなしていて、一度目にしたらちょっと忘れられません。が、それでも義手は義手。手の代用品で、どちらも生身の手ほど自由に動かすことができません。*1
他方、ハラウェイ女史の義手(攻殻機動隊風に言えば「義体化された手」?)は、一見して生身の手です。しかし彼女の手がひとたびキーパネルの上に置かれると、指の関節が開き、金属の細い枝のような指が伸び、高速でキーを叩くのです。このシークエンスではじめてハラウェイ女史の手が義手であることが示され、彼女の義手が人間の手以上の能力を持っていることがわかります。電脳化・義体化が進んでいるという物語の世界観から鑑みるに、手を失ったからではなく、おそらく彼女は自ら望んで手を*2義体化したものと思われます。身体能力を拡張するために。
親指だけ〈が〉生きている
そこで、ドロイド君の手とこれら三者の義手の違いを考えてみました。どうしてドロイド君の親指を、わたしは受け入れられないのか。
クックとエドの義手とドロイド君の義指は、有機体と無機物の割合が反転している。一番の違和感はそこにあります。なぜかわたしは有機物が「主」で、無機物が「属」であるような思い込みをしていたようで、繰り返し映像を見ているうちに、ドロイド君の指が本体で、緑色の身体は付随物のような気がしてきます。
ハラウェイ女史との違いは、彼女の義手が肌に調和しているのに対して、ドロイド君の指は黄緑のペンキが塗られた手にタコ糸のような糸で、薄汚れた人間の指がまつり縫いにされていて、とても調和しているとは言えません。かれの身体の中で、唯一、親指だけが生きている。
親指だけ〈で〉生きている
ケータイ(ガラケー)でコミュニケーションを取ることを、「親指コミュニケーション」と呼んだり、ケータイをめぐる文化を「親指文化」と呼んだりします。ケータイのキーを、親指で打つことで成立するコミュニケーション。わたしの場合、集中した状態でケータイでメールを打つときのことを思い出してみると、頭の中ではメールの文面を考えているだけで、その他に唯一感じているのはキーをポチポチと打つ親指の感触だけです。ケータイの重さだとか、立っている足の裏の感覚などは、まったく気になりません。脳が直接親指とつながっている感覚。このとき、わたしは親指だけで生きているような気がするのです。
それを考えると、ドロイド君が人間の指を欲した理由がわかります。
ドロイド君が親指だけを生身にする理由は、「触覚」を感じるために他なりません。何も、生身の親指を付けなくとも、頭に付いている触覚のような指を取り付けてもよかったはずです。生身の指にあって、機械の指にないもの、それは触覚ではないかと思ったのです。ドロイド君の義指がもつ違和感は、親指の触感を強烈なまでに強調しているのです。
つまりこのCMは、ゲームをする楽しみを親指の感触に焦点化したものだと言えるでしょう。
タッチパネルと物理キー
そろそろ新作ケータイが発表される時期です。物理キーを備えるフィーチャーフォンの割合は、これまでより多くはないだろうと思います。わたしはまだフィーチャーフォンを使っていますが、近いうちにスマートフォンへ乗り換えるかもしれません。
ここ十数年で生まれた親指コミュニケーションは、タッチパネルのスマートフォンが市場を占めても同じようにあり続けるのか、あるいは音声入力や通話にシフトしていくのか。今後がちょっと楽しみだなあ、とおもうのでした。
という感じで、いつもどおり落としどころを考えずに書き始めて後悔しつつ。


