アーカイブ : 2011年 10月

親指だけ〈が/で〉生きている

PSPケータイの動画を見て衝撃的だったのは、ドロイドくんの指のない丸い手に、人間の親指が縫い付けられているカットでした。ハサミを持った男達が後ろを振り返り振り返り、路地を抜けていくシークエンスのサスペンス風味もさることながら、夜の薄暗がりで、まさに取って付けた親指をひくひくと動かすドロイド君の姿の異様さといったらほとんどホラーで、夜に見るのは遠慮したいほどです。

あれは〈義指〉というのでしょうか。

キャプテン・クック、エドワード・シザーハンズ、ドクター・ハラウェイ。わたしは、わりと、創作の中の義手を見慣れている方だとおもいます。それなのに、あのドロイド君の指には受け入れがたい違和感がありました。半年以上経った今もってなお、その違和感が残っていたので、ドロイド君の指について考えてみることにしました。

さて。上述の三者の義手は、二種に分けられるようにおもいます。本来的な義手と、身体能力を拡張するための義手の二種。まず、時計ワニに腕を食べられてしまったクック船長、人間の手を与えてもらえず、急ごしらえのハサミの手のままだったエドワード。彼らは欠けた手の代替として、それぞれ鉤爪とハサミを義手としています。ナマの有機物である身体と、金属でできた義手は不思議なコントラストをなしていて、一度目にしたらちょっと忘れられません。が、それでも義手は義手。手の代用品で、どちらも生身の手ほど自由に動かすことができません。*1

他方、ハラウェイ女史の義手(攻殻機動隊風に言えば「義体化された手」?)は、一見して生身の手です。しかし彼女の手がひとたびキーパネルの上に置かれると、指の関節が開き、金属の細い枝のような指が伸び、高速でキーを叩くのです。このシークエンスではじめてハラウェイ女史の手が義手であることが示され、彼女の義手が人間の手以上の能力を持っていることがわかります。電脳化・義体化が進んでいるという物語の世界観から鑑みるに、手を失ったからではなく、おそらく彼女は自ら望んで手を*2義体化したものと思われます。身体能力を拡張するために。

親指だけ〈が〉生きている

そこで、ドロイド君の手とこれら三者の義手の違いを考えてみました。どうしてドロイド君の親指を、わたしは受け入れられないのか。

クックとエドの義手とドロイド君の義指は、有機体と無機物の割合が反転している。一番の違和感はそこにあります。なぜかわたしは有機物が「主」で、無機物が「属」であるような思い込みをしていたようで、繰り返し映像を見ているうちに、ドロイド君の指が本体で、緑色の身体は付随物のような気がしてきます。

ハラウェイ女史との違いは、彼女の義手が肌に調和しているのに対して、ドロイド君の指は黄緑のペンキが塗られた手にタコ糸のような糸で、薄汚れた人間の指がまつり縫いにされていて、とても調和しているとは言えません。かれの身体の中で、唯一、親指だけが生きている。

親指だけ〈で〉生きている

ケータイ(ガラケー)でコミュニケーションを取ることを、「親指コミュニケーション」と呼んだり、ケータイをめぐる文化を「親指文化」と呼んだりします。ケータイのキーを、親指で打つことで成立するコミュニケーション。わたしの場合、集中した状態でケータイでメールを打つときのことを思い出してみると、頭の中ではメールの文面を考えているだけで、その他に唯一感じているのはキーをポチポチと打つ親指の感触だけです。ケータイの重さだとか、立っている足の裏の感覚などは、まったく気になりません。脳が直接親指とつながっている感覚。このとき、わたしは親指だけで生きているような気がするのです。

それを考えると、ドロイド君が人間の指を欲した理由がわかります。

ドロイド君が親指だけを生身にする理由は、「触覚」を感じるために他なりません。何も、生身の親指を付けなくとも、頭に付いている触覚のような指を取り付けてもよかったはずです。生身の指にあって、機械の指にないもの、それは触覚ではないかと思ったのです。ドロイド君の義指がもつ違和感は、親指の触感を強烈なまでに強調しているのです。

つまりこのCMは、ゲームをする楽しみを親指の感触に焦点化したものだと言えるでしょう。

タッチパネルと物理キー

そろそろ新作ケータイが発表される時期です。物理キーを備えるフィーチャーフォンの割合は、これまでより多くはないだろうと思います。わたしはまだフィーチャーフォンを使っていますが、近いうちにスマートフォンへ乗り換えるかもしれません。

ここ十数年で生まれた親指コミュニケーションは、タッチパネルのスマートフォンが市場を占めても同じようにあり続けるのか、あるいは音声入力や通話にシフトしていくのか。今後がちょっと楽しみだなあ、とおもうのでした。

という感じで、いつもどおり落としどころを考えずに書き始めて後悔しつつ。

  1. それゆえ、エドワードは苦悩するわけです。ところで女子大生は『シザーハンズ』大好きですね……。世の男子はシザーハンズは見ておいて損はなさそうですぞ。 []
  2. もしかしたら、身体のその他の部位も。 []

スティーブ・ジョブズとデウス・オティオースス

 様々な神話のなかには、創造神が登場します。その世界を創り上げた神様は、やがて神々の世代交代のために、神話のなかでの存在感を失っていく。次第に地位を下げ、デウス・オティオースス、〈暇な神〉になってしまう。これは様々な神話に共通する構造、神話素で、あらゆる創造神が暇な神になっていくという話を神話学の授業で聞いた覚えがあります。
 神話学の話ではありますが、これは神だけに限らず人間の世界でもよく見る光景です。国を建てた王だって、会社の創業者だって、いつか自分の地位を手放すときがくる。その原因は、死であったり、役員の決定だったりといろいろですが。
 スティーブ・ジョブズは、かつて暇な神だったのではないかとおもうのです。暇な神になったかれは、それでももう一度〈世界〉を創り上げて、暇な神を脱した。ウラノスは力を失ってクロノスに神々の王の座を明け渡した後、決して神話の表舞台に戻ってくることはなかったけれど、スティーブ・ジョブズは戻ってきた。
 とても単純な気づきではありますが、暇な神にならないためには世界を創造し続ければいいのだ、ということを学んだ気がします。

戦争花嫁のこと

 お元気ですか?
 今日「僕はガラスの心臓だから……」と言っていたあなたの言葉を思い出したので、手紙を書いてみることにしました。ガラスの心臓といえば、わたしは『キャプテン翼』の登場人物を思い出すのですが、それは心臓に病気があるという意味での〈ガラスの心臓〉で、この場合の〈ガラスの心臓〉は繊細という意味でしたね。自分のことを繊細とは言いにくいから、〈ガラスの心臓〉と言う言葉で茶化してしまう気持ちはとてもよくわかります。同じように、わたしは〈メンタルが豆腐〉だったので。

 今日は「戦争花嫁」という川上未映子のごくごく短い小説のような詩のような文章について書こうと思います。『早稲田文學』の一号の表紙を開いてみると、一番最初に、たった六頁だけのその文章が載っています。これは、ある日突然、自分自身のことを戦争花嫁と名付けた女の子の一生を書いた物語です。戦争花嫁という言葉に特に意味はありません。しかしそれこそが重要なのです。「即座に意味は起立しないけれど、女の子はこうも思う。意味のないものは意味のあるものより人を傷つけるということは少ないのじゃないの。(川上未映子「戦争花嫁」『早稲田文學』第一号、p11)」彼女は、ひとを傷つけること極端に恐れているのです。
 なぜか。
 少し長いけれど、引用します。

傷ついたことのある人は、永遠に傷ついているのだということ。すべての一度が、そこにおいて永遠に起動されているのだということ。すべてのわたしはそれぞれの点でいまもなお、それを生きているのだということ。なにかを思い出しては頭のしっかりした部分ではそれは過ぎ去ったことなのだと断頭、決定をくだしているにもかかわらず、何度も何度も悲しまされてしまうでしょう。輪郭は甦らざるをえないでしょう。思い出すって、そういうこと。ないものは思い出せないのだから。それはある。女の子は、だから、今ではもうあまり喋らない。言葉を飛ばすのがこわいから。それはどんな形であるにせよ、誰かの永遠につながることなのかもしれないのだから。自分からついて出た言葉が人のなかに入っていってそこにありつづけるなんてたまらない。しかも永遠だなんて。
(上掲書、p12)

 一度誰かを傷つけてしまったら、その傷は永遠にありつづけ、そのひとを悲しませる。だから、女の子は意味を持たない(ことで、ひとを傷つけることがない)「戦争花嫁」という名を自分に与え、話すことを、一切の発話やめてしまう。このナイーヴさは、あなたのガラスの心臓と通じるところがあるとおもうのです。
 あなたは、誰かから悪意(のようなもの)を向けられたとき、原因は自分にあるのかもしれないと考えてしまう。だから、嫌なことをされても黙ってしまう。それを、周りからはおおらかだからとか、鈍感だからと判断されてしまう。実際は違うのに。そして、人知れず傷ついている。
 話すことをやめてしまった戦争花嫁のことと、周りのひとに誤解されても反撃をしないあなたの繊細さをおもうと、しんと胸が痛くなります。繊細なひとばかりが割を食うのは、まったく不条理です。
 でも、最近おもうのは、ひとのなかで生きていく限り、わたしは誰かを傷つけながら生きていくだろうし、そのひとのなかに傷は永遠にのこるかもしれない。でも、わたしも同じくらい傷つきながら生きていくだろうことを考えると、傷つけることも傷つけられることも、ほんとうは、全然たいしたことじゃないのかもしれない、ということ。わたしは喧嘩したことやいじめっこのことは、執念深く覚えているタイプですが、だからといって、それがわたしの生き方に決定的に作用することはないと思ったら、とたんにどうでもよくなってしまいました。根には持っていますが。
 誤解のないように補足しておくと、わたしのメンタルはもう豆腐ではなくなってしまったというだけのことで、繊細さを否定しているわけではないのです。繊細さというのは度合いを測れるものではなく、ひとによって全く違うものなのだとおもうので、わたしにはそもそも戦争花嫁やあなたや他のひとの繊細さを理解することができないかもしれない。だから、見当違いのことを書いている可能性もある。それでも、戦争花嫁とあなたが似ているような気がして、それを言葉にしてみたかったのです。

 「戦争花嫁」は、日本文学の伝統であるところの〈自然との一体感〉を表象して物語を終えます。ちょっと不思議な文体と、戦争花嫁という奇抜な言葉の文章なのに、きちんと文学的な伝統に則っているところが、ちょっと面白い。機会があったら読んでみてください。
 それではまた、お元気で。

ねんがんのTRPGをしたぞ

『ロードス島戦記』とTRPG

 TBSの「夏休みアニメフェスタ」をご存知だろうか。アニメイベントではなく、番組名の方、である。わたしがこどもの頃、TBSは夏休み中、平日昼頃に一時間ほどアニメや特撮の再放送をしていて、その番組枠が「夏休みアニメフェスタ」という名前だった。わたしはそこで、『ウォーリーを探せ』だとか『少年アシベ』だとか『ウルトラマンタロウ』を見たのだった*1。たしか、小学校四年生か五年生のときだったとおもう。はじめて『ロードス島戦記』のアニメを観て、わたしは衝撃を受けた。それまでわたしが見ていたアニメは、「世界名作劇場」のような、鮮やかに明るい色彩のものばかりだった。それに、当時のテレビアニメの特徴として、作画を省力化するため、コマ数を減らすリミテッドアニメーションという形式(3コマ撮り)が多用され、止めやバンクも多かった*2。しかし、『ロードス』は普段見ていたテレビアニメと異なり、落ち着いた色合いときれいな作画、テレビアニメよりもなめらかに動く、劇場版アニメのようにクオリティが高かった。テレビアニメはスポンサー料を元に作られているのに対して、『ロードス』のようなOVAはVHS等のソフトを販売することで成り立っており、ソフト一本の単価が一万円以上していたと記憶している。そういうわけで、レンタルでもしない限り、OVA作品を見ることがなかったということもあり、映像の美しいアニメーションを、わたしは見慣れていなかった。
 このような事情で、当初、わたしにとっての『ロードス島戦記』は、美麗なアニメという位置づけだった。
 ある日本屋さんの小説コーナーで、水野良『ロードス島戦記』(角川スニーカー文庫)を発見し*3、どうやらその小説が原作で、さらにそれは、テーブルトークRPGを元にしていたらしい、ということを中学生くらいになって理解した。したのだが、いかんせん第一子であるわたしにはオタクのお兄さんお姉さんはいないし、TRPGを知っている友人もいなかったため、それがどういったものなのかはほとんどわからないままだった。それでも、おもしろそうなゲームだということはわかり、いつかやりたいとおもった。
 高校生になり、同角川スニーカー文庫の友野詳『ルナル・サーガ』シリーズにはまったときにそこはかとなくルールを理解したものの、TRPGをプレイする機会には結局恵まれずに30歳を迎えたのだった。

 と、こんなとぼけたことをつぶやいてみたところ、小太郎ブログ小太郎さんがお声を掛けてくださり、ついに! ついにねんがんのTRPGをプレイすることに! しかしながら、それからの道のりは若干長かった。小太郎さんの呼びかけで何名かの方が集まり、スケジュールがたてられたのだが、残念ながら都合がつかず、わたしは二回とも参加することがかなわなかった。わたしが参加させていただいたのは三回目で、最初につぶやいてから二ヶ月後のことだった。

キャラクタを作る

 待ちわびた二ヶ月は長かった。五分前から会場の前に張り付き、時間きっかりにドアを叩いた。一番乗りだった。
 わたしは初参加なので、まずは自分の分身たるキャラクターを作らねばならない。チューハイをいただきながら「プレーヤーの書」を読みつつキャラクターを作っていく。
 今回のゲームは『ダンジョン&ドラゴンズ』。TRPG古典中の古典。世界で一番最初に生まれたTRPGなのだった。
 まず、種族(ヒューマン、エルフ、ドワーフ、ハーフリング)・性別・名前を決めて、シートに書きこむ。その後、ゲームブック的に、選択肢に沿って該当箇所を読み進めていくタイプの「プレーヤーの書」を読みつつ、物語風の文章に従ってダイスを振りながら、職業や武器、パラメータを決定し、キャラクタを作り上げていくことになる。しかし、初心者にとっては、この行程がおそらく最も難しい。わたしは1ページも読み終わらないうちに、パラメータの計算ができなくなり、他の方々に細々とお手伝いをしていただいたのだった……それでもいくつか間違いがあり、プレイ中に何度か「プレーヤーの書」に戻る、ということをした。一度作ってしまえば慣れるので心配はいらないのだけれど、もう少し、簡単にキャラクタを作成できるといいのに、とおもう。
 さて。わたしの作ったキャラクタはヒューマンの女ファイターで、名前はナウシカ。ジブリのイメージに反して極めて意思が弱く、力任せにグレートアックスを振り回す荒くれ者になってしまった。とはいえ、おそらくわたしの性格をよく反映していると思うので、とても気に入っている。

TRPG初プレイ!

 この日は、間に休憩を挟んで二回プレイした。一回目はファイター二人にウィザード一人、という攻撃型のパーティー。序盤からウィザードが一日に一回しか使えない魔法を連発するという、ウルフ二頭とゴブリン二匹相手に手加減なしの猛攻だった……。
 方眼に区切られた地図の上に、自分たちのコマを置き、すごろくのように動かしていく。一回に動かせるのは5コマずつ。
 TRPGは、ゲームマスターが物語の進行を務め、プレーヤー以外のキャラクター(主に敵だけど)を動かすのも彼の役目なので、非常に大変そうだった。コンピューターRPGでは機械がしてくれる作業を、すべて人力で行っているのだ。
 TRPGではあらゆることをダイスで決定する。例えば攻撃するにしても「攻撃が当たるかどうか」、当たるとしてもそのヒットポイントがどれくらいなのかもダイスの目で決める。さらに、ダイスを転がすごとに、キャラクタごとの補正値を足したりしなければならないので、面倒でもある。
 しかし、面白い。
 コンピューターRPGもテーブルトークRPGも、自分でアクションを選んでゲームを進めていくという点では変わらない。しかし、コンピュータRPGでは、演算が目に見えないせいか、どうしてもコンピュータに支配されている気がするけれど、自分でダイスを転がして計算するTRPGは、自分の運を使って、自ら行動している実感がある。それに、一緒にプレイしている仲間との会話が楽しい。ダイスの目にみんなで一喜一憂する。キャラクタの動かし方を見て、そのひとが普段見せない性格を推し量ることができる。
 二回目はひとり増えて、ファイター三人にウィザード一人という……職能って何? それおいしいの? 状態のパーティーで、地下ダンジョンを探索した。GMが「部屋の向こう側にドアがあります。どうしますか?」というふうに進行してくれるので、例えば「近くへ行って、ドアの向こうの様子を伺う」といった行動ができる。知覚の値が高ければ、もしかしたら向こう側の部屋の様子がわかるかもしれないし、低ければなにもわからない。「どうせ敵は全部殺すんだし、突撃しましょう!」というわたしの意見はさらっとかわされ、ウィザードが遠くからドアを開けたり、背後のドアに気をつけた布陣を引いたりと、協力しながらのプレイはとっても楽しかった。GMを努めてくださったお二人の采配(と、ダイス運)も絶妙で、初めてのプレイでよい経験ができた。しあわせ!

 というわけで、次回のTRPGを楽しみにしています。

  1. I googledの結果、「冬休みアニメフェスタ」というのもあるそうです。なぜか記憶にないのですが。 []
  2. 日本のアニメの歴史は虫プロ系と東映動画系に分けられて、このリミテッドアニメーションを牽引したのが虫プロ系です。作業の効率化、低予算化という手塚治虫の方針が、現在のアニメ業界の低所得問題につながっていたりもするようです。こういった流れのなかで思い返してみると、『新世紀エヴァンゲリオン』のOPが多くのセルを使用して、スピード感のある映像だったことが、アニメファンに大きなインパクトを与えた理由がわかります。 []
  3. しかし、買ったのは同時に発見したあかほりさとる『NG騎士ラムネ&40』(角川スニーカー文庫)でした。こども財政では月に一冊漫画か小説を買うのが精一杯であった……。『ロードス島戦記』は図書館で借りて読み、ついに買わずにきたことをここに告白しておきます。 []
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